岐阜県の概要
岐阜県は、海洋国家である日本のほぼ中央に位置し、7つの県に囲まれた数少ない内陸県の一つです。
北部の飛騨地方は、標高3千メートルの飛騨山脈をはじめとする山岳地帯が連なり、一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がっています。
面積は約1万621平方キロメートル、特に長良川中流域には美しい清流があり「日本の名水百選」に選ばれるほどです。古くから「飛騨の山、美濃の水」という意味で「飛山濃水」の地とも呼ばれてきました。複雑な地形や気候の影響を受けて、県内にはさまざまな種類の動物や植物が生息しています。
また、戦国時代から重要な拠点として栄えた岐阜県は、城下町の風情や歴史を今に伝える町並みが、数多く現存しています。
戦国を代表する武将、斎藤道山や織田信長らが天下統一を夢見た、ゆかりの土地でも有名です。
岐阜のあゆみ
古代の美濃国(岐阜県南部の旧国名。濃州とも呼ばれていた)は、日本のほぼ中心として、昔から雌雄を決する合戦の舞台でした。古くは、大海人皇子がこの国を拠点に戦った壬申の乱(天武元年(672年))がはじまりです。
一方の飛騨国(現在の岐阜県北部に当たる)は、7世紀に「斐太」「斐陀」と記されて文献にその名を残し、律令国家制度の下で「飛騨国」として統一されました。
当時の「飛騨」「美濃」という国名は、今なお呼び継がれ、現在でも方言や風習・文化が人々に根強く受け継がれています。
中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が支配しました。
戦国時代には、美濃国は天下統一を目指す斎藤道三や織田信長らの活躍の場となります。中でも織田信長が行った、「楽市楽座(独占商売を廃止し、商売を自由にできるようにした制度)」は戦国時代の世に新しい風を吹き込みました。慶長5年(1600年)には、天下分け目の合戦となった徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いの拠点にもなりました。
飛騨国は姉小路氏が支配し、本能寺の変以後は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従った金森氏が新しい領主となりました。
江戸時代の美濃国は、豊かな美濃に強大な大名が生まれることを恐れた徳川幕府により、諸藩・旗本領・天領(江戸幕府の直轄地)に分割されました。最大でも大垣藩の10万石であったといわれています。また、主に中山道の宿場町、そして商工の街として発展しました。
一方、飛騨国は飛騨高山藩の金森氏が治めていましたが、元禄期には木材や神岡鉱山に目をつけた幕府が、幕府直轄の天領として統治しました。「飛騨の匠」と呼ばれる大工を多く輩出し、林業地帯として発展したものの、濫伐による資源枯渇で江戸後期には、養蚕・製紙・絹織物業に代わります。
明治4年(1871年)8月29日の廃藩置県から明治9年(1876年)までの間に、「美濃国」の10県、「飛騨国」を含む三郡(益田郡、大野郡、吉城郡)が合併し、ほぼ現在の「岐阜県」が誕生しました。昭和20年(1945年)の太平洋戦争がもたらした戦災は、岐阜県の8割を焼失するという大きな悲劇を生みましたが、現在は復興を遂げ、今なお発展を続けています。
今日では、「人と環境にやさしい」「観光交流と産業活性化による地域の元気」「人口減少社会を見据えた取組み」と3つのテーマを掲げ、確かな明日の見える岐阜県づくりを目指しています。
岐阜の名前の由来
岐阜は昔「井口」と呼ばれていましたが、岐阜城を陥落した信長の命により「岐阜」に改められたといわれています。「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事にちなみ、「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるようにという願いが
こめられています。
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| 岐阜県の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
岐阜市歴史博物館 |
| 住所: |
〒500-8003
岐阜県岐阜市大宮町2-18-1(岐阜公園内) [地図を見る] |
| 電話番号: |
058-265-0010 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00まで |
| 休館日: |
月曜日・祝日の翌日・年末年始 |
| 入館料: |
大人300円(240円)
小人150円(90円)
※()内は団体料金 |
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